スノーピーク

山井太氏代表就任から10年を追う

熱狂的なファンを集め、2015年11月には東証一部への上場を果たした株式会社スノーピーク。同社が歩んできた道のりは決して、平坦な道ではなかった。特に現代表 山井太氏が入社してから経た30年の内、最初の10年とそれ以後の20年は全く違う会社だと述べているほど当初の10年には様々な出来事が起こっている。そんなスノーピークを、転機とも言える2つの出来事「キャンプ市場を拓く」「ブーム、去る」から紐解いていく。

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キャンプ市場を拓く

1958年、スノーピークの前身となる金物問屋「山井幸雄商店」を現代表の父にあたる山井幸雄氏が新潟県三条市にて創業する。釣具の製造を主に行い、同氏が趣味として愛した登山で満足のいく製品を自ら開発も行なっていた。現代表の山井太氏が入社した当時では年商6億円の内、登山用品は5000万円ぐらいを占めていたという。

山井太氏(後 山井氏)はというと、明治大学を卒業した後、東京にあるスイス系ブランドの輸入販売会社で企画営業をしていた。入社した会社では人材育成には一人1億円かかるという話を聞いて、その分の売上を稼ぐという覚悟のもと新規開拓で約10億売り上げたという。「決めたらやる」、そんな山井氏の姿勢が垣間見える。

そんな中、父から会社に戻ってこいと連絡がくる。山井氏は忘れていたようだが、父と3年外の会社で働いたら戻ると約束していたようだ。こうして、山井氏は父の事業を継ぐことを真剣に考え始める。

オートキャンプへの着想

もともと、外資系商社を数年勤めたら父の会社を継ぐということはなんとなく頭にあったようだ。そして、会社を継ぐのであれば、これだと思うものを見つけたい。そんな思いで、自動車全体の10%の登録台数まで及び、流行っていたSUVを使ったキャンプを提唱すれば日本に根付くのではないか、と素直に発想したようだ。

また、26歳で燕三条に戻って父の会社に入社した時に、地場産業の価値の低さに違和感を覚えている。その違和感が地場産業への思いが、ハイエンドへの差異化を考えるきっかけにそんな中で、現在のビジネスに通じる考え方の根本に辿りつく。

正当に評価してくれるマーケットに、モノの価値が理解できて高く買ってくれる人に向けてビジネスを展開しなければならない、と思った。そのためにこだわり、自分が本当にほしい製品を作ろうと決意した。

新たなキャンプのスタイルを提唱

1986年に父の会社に入社した後、早速山井氏はいくつかのことに取り組み始める。その一つに、今までにはない「もっとしっかりしたテントやキャンプ用が欲しい」という強い思いの実現だ。

当時売られていたテントは、9800円と1万9800円の2種類だけだった。その市場に対して、当時では普通ではなかった高品質なテントを16万8000円のテントを開発した。周りの社員の冷ややかな評価を受ける中で、そのテントは約100張が売れた。

また、1988年にはSUVを使ったオートキャンプというスタイルを提唱する製品を100アイテム近く開発・発売して注目を集め、1993年には売上は山井氏入社当時の5億から5倍の25億5000万円まで拡大する。こうしてハイエンドへの差異化は、仮設から確信へと変わっていく。

製品を永久保証にする

また、入社して直後に製品の永久保証をすると宣言している。これも、ユーザー目線に立った時に、山井氏が製品が壊れてしまったり、使い勝手が悪いようなものづくりはしないと考えた上での発言だという。

そうして、製品の厚みを細かく刻んでテストを行い、十分な耐久性を担保できる厚みを設定したり、テーブルの最も使いやすいと感じる高さを仮設検証を繰り返す中で設定することで、製品の基準づくりを徹底して行なっている。

確固たる羅針盤を定める

山井氏が入社直後から取り組んでいた内容には、「自らもユーザーの立場で考える」「新たなキャンプのスタイルを提唱する」といった一貫した筋が存在している。その理由として、「ミッション・ステートメント」の設定を全社員を巻き込んで行なっていることが挙げられる。

当時社員は15人、年商5億円、売上総利益1.3億円ほどの小さい会社だったが、全員に「自分にとってのミッション」を書いてもらうことから始めた。それをまとめていき、やがてスノーピークウェイができ上がった。

またスノーピークウェイの根幹となるいくつかの概念は、入社する以前の山井氏が人生で培った経験が大きく影響していると言える。1958年に金物問屋を創業し、谷川岳を愛した登山家でもあった父 山井幸雄が「本当に欲しいものを自分で作る」と考えてオリジナル商品を開発していたことは、「自らもユーザーであるという立場で考える」という姿勢に通づるものがある。

ミッションステートメント

The Snow Peak Way
私達スノーピークは、一人一人の個性が最も重要であると自覚し、
同じ目標を共有する真の信頼で力を合わせ、
自然指向のライフスタイルを提案し実現するリーディングカンパニーをつくり上げよう。

私達は、常に変化し、革新を起こし、時代の流れを変えていきます。

私達は自らもユーザーであるという立場で考え、
お互いが感動できるモノやサービスを提供します。

私達は、私達に関わる全てのモノに良い影響を与えます。

ブーム、去る

堅調に躍進を続けていたスノーピークだが、いいことばかりは続かなかった。1993年まで拡大を続けたスノーピークだが、オートキャンプブームが去って1994年から1999年まで6期連続で減収する。93年の売上25億5000万円、経常利益3億5000万円に対して、99年には売上14億5000万円、経常利益4000万円まで落ち込んでしまう。

着実に製品開発を続ける

それでも、方向性をぶらさずに課題に真正面から立ち向かっていく。今ではロングセラーとなる「焚火台」を1996年に発売するなど、着実に製品を開発し続ける。発売当初は売れなかったようだが、2、3年立ってから売れ始め、こうした取り組みが後に支えとなったという。

そして苦しい状況下でも原則、スノーピークは販売価格を落とさない。それが実現できるのは、強堅な財務体質があるから売り急ぐことがないからだと山井氏は述べている。ブームが過ぎた94年までに資金を蓄えて、健全な財務体質を築いていたことが苦しい状況を乗り越えられた要因の1つだという。

また、市場が縮小するなかで「ハイエンドへのこだわりを捨ててホームセンターや量販店に製品を出荷する」「コンセプトを変えないで、新たに海外市場を開拓する」という2つの選択肢に迫られても、迷いなく海外への展開を選び、その開拓を推し進めている。

転機となるスノーピークウェイ開催

1998年に大きな転機が訪れる。社員の一人が「ユーザーの顔を見ることから始めないと元気がでない。ユーザーとキャンプをしよう。」と提案したことがキッカケで、キャンプイベント「スノーピークウェイ」を開催する。このキャンプには、スノーピークを愛する約30名のユーザーが参加され、参加者全員が口をそろえて「製品が高い」「良い品揃えをしている店がない」とおっしゃったという。

キャンプ終了後にすぐ山井氏は、ユーザーの要望に応えるために、当時問屋経由を含めて取引していた約1000店を見直し、直接取引のネットワークを作ると覚悟を決める。そして2000年には、ユーザーの声を支えに取引先を4分の1まで減らし、直接取引のネットワークを構築する。

結果は2000年から早くも出始め、売上が回復していく。以後、スノーピークは革新的な製品を開発し続けて拡大し、売上は2017年には92億を超えて躍進を続けている。

まとめ

「身銭」か「理念」か。そんな2つの選択肢は、私たちを常に悩ませる問題だと思う。その2つの選択肢を迫られた際に、山井氏はどうして決断することができたか。それはやはり、山井氏と社員が腹落ちしていた「スノーピークウェイ」という軸の存在が大きいといえる。しかし、そうした一義的なものではないように感じる。「一貫したスタンスで行う開発」「ハイエンドで差別化を徹底することで生まれる高い粗利」「健全で美しい財務体質」、そうした決断の連続が産んだ結果が後のスノーピークを支えたとも言えるのではないだろうか。

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